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家族のこと

現在なら大問題?

家族の影ここでは家族に関する事を、綴れる範囲で記してみたいと思います。
まずは私の製造元(笑)である、我が両親に関してサラリと。

父親は警察官一筋37年から定年後いわゆる「天下り」で民間某企業に再就職するも水が合わず、1年と持たずに退職から、程無く鬼籍に入りました。
警察官と聞けば多くの方々が堅物(カタブツ)を連想しますが、実際には亀有公園前派出所には遠く及ばずとも、楽しい人達は数え切れません。
但し父に関しては警察官の中でも突出した「融通が効かぬ堅物の王者」だったのは想像通りで、もう時効のこんな出来事がそれを証明しています。

若き日にノーヘルでミニバイクに跨り、坂道で左側から覆面パトを追い抜いた私は次の瞬間、当然一瞬で免許停止のお裁きを頂戴しました。
「見事過ぎるゾ」と呆れ顔の巡査さんに免許証を差し出したところ、何やら様子がおかしい。
当然ピン!と来た私は「堅物のオヤジがご迷惑掛けていませんか?杓子定規な事言っては独りで怒鳴るばかりで煙たいでしょ?」と一気に伝えました。
するとその巡査さん、急に姿勢を正して検挙した私に対し「と、とんでもありませんっ。き、厳しくご指導いただいてますっ!」って。

母はそんな父を「意味不明な小型瞬間湯沸かし器」と称して呆れ諦め顔。
幼い頃も何が気に喰わないのか、突然一本背負いで玄関から外に放り出されるなど茶飯事。
泣きじゃくりながら母親に父の怒りの理由を尋ねても、毎回答えは必ず「わからん」の一言。
大阪の吉本新喜劇が新宿の高層ビルの裏側で、日々リアルに上演されていた事、当時のご近所の方々は日々S席観賞でした。

男は父の反対側に札を張る生き物

タイトルの通り、一応家庭を構え世帯主となり、一児の父親となった私、子供にはとにかく甘い(苦笑)。
ちなみに家内は最初の職場の同期入社の女性ですが、独身時代に特に「つきあってください」とか「結婚してください」とか、どちらも口にした覚えがありません。
私と同じ気持ちの方のブログも見つけましたので、合わせてご紹介します。
>> はじめまして|子供に甘いパパのブログ

気づけば互いに心地良い距離感でそれぞれが生きている中、気づけば一緒に暮らし始めていた・・・決して気取る訳でも何でもなく、これが本当のところです。
意外とこんな夫婦って沢山いらっしゃるかと思ったりもしますが、皆さんはどうでしょうか?

数年前に岡山に転居以来、家内の実家にもホントに良くして貰い、頭が上がりません。
ちなみに家内の実家、何と寺院で義父は僧侶で、現在は長男に住職の座を譲り、それでも悠々自適とは行かぬらしく、大切な法要では大きな身体で読経に講和に勤めておられます。
決して大きくは無い寺院ですが、やはり最初に訪れた時には随分面喰いました。
敷地内に墓石が並び、壁からパンチパーマの仏さんの首がニョッキリ出ている訳ですから、薄気味悪いやら笑ってしまいそうになるやら、真面目な表情を保つのが大変でした。

そんなごく平凡な、その限りでもなさそうな人達との、偶然と必然のご縁に恵まれ、地球上のみならず宇宙でおそらく1番平和で豊かなこの国に、五体満足な人間男子として命を授かった私です。
これ以上の幸運など何も考えられない環境下、大切な家族を守るべく、世帯主として父親として為すべき事、それは「与えられ恵まれた仕事に邁進」に他なりません。
何やら最後は超真面目モードで纏めてしまいましたが、偽らざる気持ちです。

自己紹介

ここではよりプライベートなことを

自己紹介に関しては、このブログの1番最初でもザックリと掲出させていただきましたが、ここでは医療機関に従事する立ち位置ではなく、あくまで1個人としての私自身を語ってみたいと思います。
芸能人でも有名人でもありませんが、このブログにアクセスいただいたのも何かのご縁だと受け止めています。
「こんなヤツがこんな事を語っているのか・・・」と確かめていただければ幸いです。

高層ビルが増えるのを数えながら

生まれも育ちも東京と新宿区、新宿副都心の高層ビルが次々に増えて行く風景を眺めながら、小中高大と1度も転居する事無い学生時代を過ごしました。
関東圏の方々ならご存知の通り、あの高層ビル群の裏側(西側)には、今も昭和の名残りを残す昔ながらの住宅地域が広がっていて、私もそんな地域を自転車で駆け回る少年でした。
クラブ活動は中高とテニス部、そして中学時代から音楽にハマり、悪友達とバンドを組んで文化祭ではちょっとした花形気取りでした。
右手にギター、左手にラケット、教科書類はロッカーの中という、不良でこそありませんでしたが、いわゆる「チャラい奴」に属していたと自覚しています。

大学で理工学部を専攻したのも、特に明確な将来のビジョンがあった訳では無く、現役受験で唯一合格ラインに引っ掛かり、これ幸いと入学したからに他なりませんでした。
音楽熱は冷めるどころか増す一方でしたが、自分がミュージシャンになれる器では無かった事、誰よりも自身が1番分かっていました。
「あわよくば楽器メーカーに技術者として拾ってもらえないかな?」なんて漠然と思いつつ、バイトに遊びにサークル活動に駆け回る、何の変哲もない私大生でした。

社会人デビューから医療の世界へ

いわゆる就活に際しても「周囲がやってるから」「とりあえず内定貰えりゃラッキー」的な、何とも積極性を欠く姿勢でしたが、折しも世の中はバブル真っただ中。
当時の若輩者はそんなイレギュラーな景気にも気づかず、最初に内定を届けてくれた外資系の医療機器関係企業にお世話になりました。
病院回りの営業はなかなか大変でしたが、元来人と接するのは嫌いでは無く、上司や取引先の方々にも色々な面(?)で可愛がっていただける、恵まれた社会人デビューでした。
漠然と「このまま定年までこんな調子かな?」と、それでも10年20年後の自身のビジョン、明確に見据える事もせずに出来ずに、淡々とサラリーマン生活を送っていました。

やがて結婚から一粒種の子宝にも恵まれましたが、幼少時から喘息に悩まされ、当時の主治医からも「空気の澄んだ郊外への転居」を進言されました。
年齢的にも同程度の条件での転職が難しいとされる時期に差し掛かっていましたが、我が子の健康には替えられません。
ここで幸いしたのが私の座右の銘的な姿勢の「なるようになるサ」で、家内の実家の在る岡山県への移住を最初に決め、そこから職場を探すという順番でした。
幸運にも現在の病院への再就職が叶ったのは、先の自己紹介でも触れた通りです。

音楽の世界に漠然と憧れていた自分が、全く接点の無かった病院という医療の世界に従事するとは、本当に世の中は「縁」と「不思議」の連続だと感じています。
そして今、医療の世界が抱える深刻な問題を凝視し、その警鐘をこうしてブログを通じて皆さんに伝えようと試行錯誤している自分自身が居るのですから、これまた不思議の極みです。