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言葉に慣れるのに時間かかりました

家内の言ってた事をようやく実感

虫眼鏡で読む東京生まれ東京育ちで他の地域での生活を知らぬまま、この年齢になって初めての見知らぬ土地への転居を経験する事となりましたが、何より高く感じられたのが「言葉の壁」でした。
いわゆる岡山弁は決して乱暴なイントネーションでは無い事、今でこそ理解出来ていますが、当初の私には何だか語尾を「言い放っている」「吐き捨てている」風に聴こえてしまい、常に怒られている印象が拭えませんでした。
例えば広島寄りの地域では「ダメ」を「いけん」と表現するらしく、この「けん」の部分にアクセントがかかると、強く咎められている印象を越え、叱りつけられている感が否めなかったのです。
女性が男性に対し「○○君、いけ~んっ」と甘える風に言っていたとしても、私には何やら喧嘩している風にしか届いて来ませんでした。

こうした言葉の壁が相手に伝える印象、それは岡山の方々が私に抱く印象にも共通して当然です。
西日本の人達からすれば、東京弁は時に「気取っている」「鼻に付く」と感じられる事、予備知識として知っていましたが、数十年話し聞き続けた口調やイントネーションはどうしようもありません。
失礼が無いようにと極力丁寧に語り掛ければ「何だかよそよそしい感じ」だと受け取られ、親しみを込めて話し掛ければ今度は「偉そうに」「自分の事を何様だと思ってるんだ」と受け取られてるように思え、無口になってしまう自分に戸惑うばかりでした。

岡山出身の家内がずっと前に零していた事が「これだったのか」とようやく理解出来ました。
地方から東京に出て来た人達は、誰もが一時期無口になってしまう、そんな話も私にとっては単なる都市伝説に過ぎなかったのですが、それが大きな間違いだと痛感させられました。
「どうすれば上手に自分の居場所を与えて貰えるのだろう」と、普段小さな事には悩まない私でしたが、この時ばかりは独り内心深刻でした。

時間が解決

それでも日々の暮らしは待ってはくれません。
職場や近所の方々は直ぐに、私が東京出身である事をごく自然に許容してくださり、何よりそこは大人と大人のスタンスですから、私の東京弁が人間関係に悪影響を及ぼす場面、自身が知る限りでは生じる事はありませんでした。
そして何より、人間は程無く環境に順応する生物である事を、他ならぬ私が実感する事となりました。

転居から数ヶ月、久々に東京時代の旧友と電話で話した際、こんな指摘を受けたのです。
「オマエ何だか言葉のアクセントが変だぞ!?今のその『いけ~ん』って何だよ?どこに行けないのかちゃんと説明しろよ!」。
勿論受話器の向こうは含み笑いでした。

そんな友人との会話を傍で聴いていた家内から、こんな一言が。
「私も東京に住んで数ヶ月後には、ごく自然に『○○しちゃったァ!』とか言ってたわよ」。
それより何より、子供は何でも素早く吸収する乾いたスポンジですし、気づけば家内はすっかり岡山弁にりターン。

世帯主 岡山弁は 最後尾
何とも締まらぬ五・七・五ですが、現在はこんな感じです。