ここではよりプライベートなことを
自己紹介に関しては、このブログの1番最初でもザックリと掲出させていただきましたが、ここでは医療機関に従事する立ち位置ではなく、あくまで1個人としての私自身を語ってみたいと思います。
芸能人でも有名人でもありませんが、このブログにアクセスいただいたのも何かのご縁だと受け止めています。
「こんなヤツがこんな事を語っているのか・・・」と確かめていただければ幸いです。
高層ビルが増えるのを数えながら
生まれも育ちも東京と新宿区、新宿副都心の高層ビルが次々に増えて行く風景を眺めながら、小中高大と1度も転居する事無い学生時代を過ごしました。
関東圏の方々ならご存知の通り、あの高層ビル群の裏側(西側)には、今も昭和の名残りを残す昔ながらの住宅地域が広がっていて、私もそんな地域を自転車で駆け回る少年でした。
クラブ活動は中高とテニス部、そして中学時代から音楽にハマり、悪友達とバンドを組んで文化祭ではちょっとした花形気取りでした。
右手にギター、左手にラケット、教科書類はロッカーの中という、不良でこそありませんでしたが、いわゆる「チャラい奴」に属していたと自覚しています。
大学で理工学部を専攻したのも、特に明確な将来のビジョンがあった訳では無く、現役受験で唯一合格ラインに引っ掛かり、これ幸いと入学したからに他なりませんでした。
音楽熱は冷めるどころか増す一方でしたが、自分がミュージシャンになれる器では無かった事、誰よりも自身が1番分かっていました。
「あわよくば楽器メーカーに技術者として拾ってもらえないかな?」なんて漠然と思いつつ、バイトに遊びにサークル活動に駆け回る、何の変哲もない私大生でした。
社会人デビューから医療の世界へ
いわゆる就活に際しても「周囲がやってるから」「とりあえず内定貰えりゃラッキー」的な、何とも積極性を欠く姿勢でしたが、折しも世の中はバブル真っただ中。
当時の若輩者はそんなイレギュラーな景気にも気づかず、最初に内定を届けてくれた外資系の医療機器関係企業にお世話になりました。
病院回りの営業はなかなか大変でしたが、元来人と接するのは嫌いでは無く、上司や取引先の方々にも色々な面(?)で可愛がっていただける、恵まれた社会人デビューでした。
漠然と「このまま定年までこんな調子かな?」と、それでも10年20年後の自身のビジョン、明確に見据える事もせずに出来ずに、淡々とサラリーマン生活を送っていました。
やがて結婚から一粒種の子宝にも恵まれましたが、幼少時から喘息に悩まされ、当時の主治医からも「空気の澄んだ郊外への転居」を進言されました。
年齢的にも同程度の条件での転職が難しいとされる時期に差し掛かっていましたが、我が子の健康には替えられません。
ここで幸いしたのが私の座右の銘的な姿勢の「なるようになるサ」で、家内の実家の在る岡山県への移住を最初に決め、そこから職場を探すという順番でした。
幸運にも現在の病院への再就職が叶ったのは、先の自己紹介でも触れた通りです。
音楽の世界に漠然と憧れていた自分が、全く接点の無かった病院という医療の世界に従事するとは、本当に世の中は「縁」と「不思議」の連続だと感じています。
そして今、医療の世界が抱える深刻な問題を凝視し、その警鐘をこうしてブログを通じて皆さんに伝えようと試行錯誤している自分自身が居るのですから、これまた不思議の極みです。